市川雷蔵の魅力 ☆ 「越後屋姫の部屋」

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  「 ☆ 越後屋姫の部屋 ☆ 」
☆ 越後屋姫 ☆


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2009/10/16/Fri 12:20:31   メッセージルーム/CM:0/TB:0/



  「 ☆ 越後屋姫の部屋 ☆ 」
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2009/10/15/Thu 12:00:19   メッセージルーム/CM:0/TB:0/



  市川雷蔵
市川雷蔵
京都市堀川丸太町で商社員の父・商家出身の母との間に亀崎章雄(かめざきあきお)として生まれる。しかし諸事情があり実の両親と相次ぎ離別を余儀なくされ、生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優市川九團次(本名・竹内嘉三)に引き取られて養子となり、竹内嘉男(たけうちよしお)と改名。なお、更に1951年市川壽海 (3代目)(本名・太田照三)と養子縁組、このとき戸籍名を太田吉哉(おおたよしや)に改名、他界までこの名が本名となる。

1944年、海軍兵学校への進学を目指して旧制天王寺中学(現大阪府立天王寺高等学校)に入学するが後に中退し、15歳で大阪歌舞伎座、東西合同大歌舞伎『中山七里』(娘 お花)で初舞台。芸名、市川莚蔵(いちかわえんぞう)。雷蔵は歌舞伎俳優家の出身でなく、また九團次も脇役俳優ゆえ歌舞伎役者としての活動に様々な不利・制約を受け続けたが、雷蔵の実力を見抜いた評論家武智鉄二や壽海、松竹取締役(当時)・白井信太郎の引き立てで一躍関西歌舞伎の若手のホープの一人として躍り出る。

1951年、19歳で、当時の関西歌舞伎の頭領であった壽海の養子となり、8代目市川雷蔵襲名。その年の6月に大阪歌舞伎座における『伊勢音頭恋寝刃・大太講』がその襲名披露の狂言であった。

当初、養父である市川九團次は市川新蔵[1]の名跡を継がせたいと考えていたが、市川猿之助(のちの市川猿翁)に、「どこの馬の骨とも知れぬ役者に新蔵の名跡はやれぬ」と反対され、やむなく市川雷蔵を襲名したという経緯がある。

こういった経験から、父の市川九團次は何とかして息子に名門の家柄を付けてやりたいと考えるようになり、後の壽海との養子縁組につながっていく。しかし、江戸歌舞伎よりも関西歌舞伎の方が実力本位であるとは言われても、やはり保守的な部分が多く事ある毎に血縁や名跡が重視されるのが梨園の世界であり、その中での活躍の期待はやはり難しく、最終的には22歳で歌舞伎の舞台から離れて『花の白虎隊』で銀幕デビュー。これ以降は映画の世界に身を置くこととなり、結果的に歌舞伎の世界へ戻る事は生涯なかった。

雷蔵が歌舞伎、そして松竹と距離をおいたのは松竹創設者・大谷竹次郎との間に確執があったからとか、雷蔵が永年の養父・九團次を思慕するあまり、新たな養父・壽海に馴染めなかったからとも伝えられる。その上、この時期というのは、関西歌舞伎自体が興行不振や内紛によって凋落傾向どころか崩壊の様相さえ呈しつつあった頃で、公演数も激減しており、壽海が手をとって雷蔵に役を教え歌舞伎役者として育てる機会にも恵まれなかった。

また、当時松竹は若手のスターであった2代目中村扇雀(現:4代目坂田藤十郎)と4代目坂東鶴之助(現:5代目中村富十郎)の二人を「扇・鶴」として売り出し、不振の趣を見せ始めた関西歌舞伎の建て直しの起爆剤にしようと考えていたため、必然的に主役クラスの役はその二人に振られ、雷蔵へ付く役はいつまでたっても脇役扱いから脱却できなかった。裏を返せば、松竹は伝統に縛られるあまりに、歌舞伎俳優家の血ではない雷蔵の才能を見落としていた、あるいは軽視していたという事もいえ、現在では雷蔵の軽視と映画界への流出を、戦後の関西歌舞伎の凋落の一因として指摘する者もいる[2]。

他方、市川雷蔵の名は歌舞伎の世界にとっては軽い名跡とは言え、松竹の手を離れた後の映画界でその存在が大きく成り過ぎた事により、歌舞伎を牛耳る松竹にとっては甚だ扱にくいものになっているのか、その後の歌舞伎の世界では現在まで名を襲う者が無い、いわゆる「永久欠番」的な存在になっている。

一方、雷蔵の映画への転身については、雷蔵の役者としての才能を買い、また喪失させまいとした映画界(特に時代劇製作サイド)がアクションを起こしたからだといってよい。『朱雀門』で東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞受賞。大映映画の屋台骨を支える大スターとして活躍。気品や風格(『眠狂四郎』シリーズや『大菩薩峠』では左記に加え、喩え難い 虚無的な妖気すら)を表現しえた不世出の時代劇スターであるとして、その評価は没後久しい現在もなお高い。 「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい」(三島由紀夫)。

また、撮影スタッフとの意見交換も積極的に行い、それまでの時代劇にありがちな、過度の寄り画面などの要求などはむしろ嫌い、リアリティを重視して地味でいいからと引きの画面などを自ら提案。アングルや照明など、様々なアイディアで撮影技術のノウハウ蓄積に大きく貢献した。

私生活では1962年、日本女子大学の学生で大映社長永田雅一と養子縁組していた女性(一般人)と結婚、一男二女を授かった。映画俳優として脂がのりきり、また永年の念願だった歌舞伎復帰も検討された矢先の1969年、肝臓癌のため37歳の若さで夭折。前年より下血など健康を著しく害しており入院・手術等を繰り返していた。雷蔵の遺児は当時6歳(長女)・5歳(長男)、末子の二女にいたってはまだ1歳だった。「病み衰えた顔を見せたくない」が、末期の言葉として伝わっている。

生来、身体があまり丈夫ではなかった。中村玉緒がインタビューで語ったところでは、映画撮影の合間にも付き人が何か薬を用意している光景をよく見たという。撮影に耐えうる体力づくりを行うべく、二十代半ばから晩年まで、交流のあった同志社大学の相撲部に通い、相撲の稽古によって足腰を鍛え、殺陣に生かしていた。

また、私生活はほとんど表に出さず、私生活での雷蔵の姿を見てその人が雷蔵であると気付ける者は、ファンはもとより映画業界やマスコミの人間にもほとんどいなかった[3]。親交の深かった者の多くがインタビューなどで語るところでは、メーキャップが天才的に上手で、洋装でメガネを掛けた銀行員然たる普段の雷蔵と、カメラの前の雷蔵とはまるで別人であり、舌鋒鋭い毒舌家で、多くの女優が泣かされたりしたことはあるものの、基本的に心優しい雷蔵が、どうしてあれ程に冷たい演技をできるのか不思議な程であったという。ここにも不世出と言われた雷蔵の才能の一端を見る事ができる。

大映は1971年に倒産したが、これについても雷蔵の死が致命傷になったといわれている。作家の池波正太郎は、「大映は、死ぬ間際に無理矢理一本撮らせたそうな[4]」と自らの随筆に記しており、結果的に倒産を早めるきっかけを作ったのは他ならぬ大映自身であり、また大映の姿勢が雷蔵の生命を縮めたという見方を示している。また演技力・品格・風格を兼備しながら同じく37歳で癌死したという共通点から、雷蔵は和製ジェラール・フィリップと喩えられることもある。

当時の映画の共演者やスタッフには現在でも雷蔵を慕い、若くして失われたその才能を惜しむ者が多い。だが、没して約40年を経た現在にあっては、雷蔵を直接に知る人物は映画・映像の世界でも少なくなっている。現在、雷蔵の公私に渡る人柄を直接知りまた語る事のできる著名人としては、互いが芸の世界に入る以前から親交があった中村玉緒が知られ、様々なインタビューで雷蔵の事を語っており、現在でも兄の様に慕っている事で有名である。

死後も時代を超え人々を魅了しつづけ、京都では毎年夏に映画イベント「市川雷蔵映画祭」が開催されている。



2009/09/15/Tue 01:41:50   市川雷蔵/CM:0/TB:0/



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